雨森芳洲先生と芳洲庵の紹介

◎雨森芳洲先生とは
  雨森芳洲(1668~1755)は、江戸時代中期の儒学者で、朝鮮との外交に活躍した人です。
 芳洲は、雨森村(現長浜市高月町雨森)の医者の家に生まれたといい、22歳のとき、九州と朝鮮半島との中間に浮かぶ島・対馬藩(現長崎県対馬市)に仕えました。その頃は鎖国の時代でしたが、隣国朝鮮とは「通信の国」として、徳川幕府は善隣友好の交わりを結んでいたのです。その交流の窓口が対馬藩でした。
 芳洲は儒者として対馬藩に仕えましたが、31歳から外交の実務を担当する役職を命じられて、数々の業績をあげました。
 当時の朝鮮外交は、「筆談外交」と言われる時代でしたが、芳洲は「ことばを知らで如何に善隣ぞや」と釜山に三年間留学して、朝鮮のことばを習得しました。
 44歳と51歳の時には、朝鮮通信使の真文役として江戸往復の旅に随行して大活躍しました。61歳の時、主君に上申した『交隣提醒』の著作には、「互いに欺かず争わず真実を以って交わる」という、国際社会の現代にも通用する「誠信外交」の秘訣が述べられています。
 また芳洲は、生涯学習の先駆者でもあります。晩年になっても向学の心は衰えることなく、一万首の和歌づくりを志し、『古今和歌集』一千遍詠みを二年かけて完了し、88歳の生涯を終わるまでに二万首の詠草を成し遂げました。
 2017年10月、日本と韓国の共同提案で申請された「朝鮮通信使に関する記憶:17~19世紀の日韓間の平和構築と文化交流の歴史」がユネスコ「世界の記憶」に登録されました。
 登録件数は111件333点あり、その内36点が芳洲先生の著作等です。
◎芳洲庵とは
 芳洲庵は1984年(昭和59年)に芳洲先生の出身地に建設したものです。
 ここは、芳洲先生の生涯をたどり、思想や業績を顕彰するとともに、東アジアとの交流と友好を目指す拠点施設です。
 大きなケヤキのそびえる敷地からは、遠く己高山に連なる山々が望めます。
 静かな佇まいの庵内には、芳洲先生の著書や遺品、芳洲先生が深く関わった朝鮮通信使の資料などを展示しており、また、研修室では芳洲の朝鮮通信使についての講座、国際交流、人権学習、まちづくりなどの講話を聞くことができます。
 芳洲庵は、これからも芳洲の「誠信の心」を内外に発信しながら、東アジアの平和と友好のふるさとづくりのために、多くのみなさんに活用していただくことを願っています。